小さな生きものに対するわたしの感情。誤解をおそれない。
誤解をおそれないで伝える、というのは簡単そうでいて難しい。
だけど、これからのわたしは出来るだけシンプルに、自分の湧きでる清水のような感情を伝えていきたい。
こどもの虐待のテロップや見出しを見ては、胸キューっと痛めます。
コワいニュースの見出しでも同じ。
よりちいさきもの、か弱い存在のそのようなニュースはとても残念でいたましい気持ちになりますね。
先ほどは、メスの子熊がうろうろしていて、駆除されたニュースの見出しをみました。ちいさな横たわる写真といっしょに。
なんて、痛ましいんでしょう。
小さな体でしばらくうろうろしていたらしいので、母熊はどうしたのだろう、駆除されたみなしごなのかしら。
そういった種類のいたましさです。
熊の幼子の戸惑いを感じるわたしは、変わっているのかもしれません。
でもこれは紛れもなく、わたしの中から流れ出る哀しみといたましさなので、隠しようもありません。
この子熊は、学校(だったかな?)の近くをうろうろしていたので、人間は心配していたそうだけど、それは少し置いておきます。この哀しみと痛ましさとは別のところにあることだから。
幼い、ちいさな生きものに対する、人間の共感力としてわたしは自分の感情を丁寧に扱ってあげたい。
同じように感じる人に出会うと、仲間に出会ったようにほっとします。
たまたまそんな仲間と誰とも会わなかったとしても、わたしはこの、命に対する自分の感情を大切にして信じたいんです。そう、信じています。
永久不変にかわらないわたしの大切なものです。
これは、わたしが生きるにあたって根底に脈々と流れるフィロソフィーであって、こだわりのようなものなのかもしれません。
わたしがわたしである所以といいますか。