言葉を超えるのは、人だけではないのだろう
動物と、特に犬や猫と話が出来る人がいるらしい。
ドリトル先生もそう、アッシジの聖フランシスコもしかり。
わたしは動物と話は出来ないけれど、動物の感情、特に人間と暮らす犬と猫の場合は、人とほぼ変わらない感度で感じ取ることが出来ると思っている。
哀しみや訴え、そしてはちきれんばかりの満面のうれしさ!無邪気さ!
それに、人間にもあるような強情なわがままさや、やきもちなんかもあるので、その点は(* ̄▽ ̄)フフフッ♪と面白おかしい。
そしてもちろん、人の感情にも同じように敏感なほうだと思う。
哀しみ、よろこび、その他もろもろの心の動きは、言葉がなくてもおおよそのことは、その瞳と背中と雰囲気からちゃんと伝わってくる。
そういった点から考えると、10代の頃はまったく考えていなかったけれど、わたしはそもそも適正としては、保健医療従事者に向いていたのかもしれない。
そのうえ環境や動物も大切にしたい気持ちが強いので、地球環境と健康の結びつきを大切にしているロハス、というカテゴリーにたどり着いてしまった。
基本的に言葉という言語を介さなくても、人間間のこころ模様はそれとなく伝わるので、母国語がどうだとか、そういったことはどうでもよい、ということになるのかもしれない。
それでも人間は、言語を用いて自分の感じていること、考えていることを表明して相手とやり取りをしていく。というところに、更なる発展性がある。
だけど、言葉を話せない存在はそれが出来ない。
赤ちゃんや、世界で共通に使えない言語を使う少数民族、そして人間以外の動物などがそうだろう。
嫌なことをされても、自分の意見を相手に表明して、そういうことはやめてほしい、人道的なおもいやりのある方法を!など交渉やアピールができない。なので、相手次第で、やられっぱなしのことにもなりかねない。
こういった人たち、そして動物、大きくとらえると自然もそうだけれど、やられっぱなし、ということになりかねない存在の橋渡しになりたい。という気持ちがどうにも大きくて、なんとかここまで、歩いてきているような気がしている。
ぶっきーかもしれない。だけど、もはやそうしか生きられない自分が結構すきだったりするのもおかしい。
ビオ・セボンは原宿駅の千代田線につながる地下のお店しか行ったことがなかったですが、今日は外苑西通りを初めて歩いていたら発見。
オーガニック紅茶はティーバックですが、美味。そして身近な150円。豆乳を自由にin。
割引中でなければ、手が伸びなかっただろう、岩手の海が見える丘で丘を登ったり下りたりしている自然放牧牛の先駆け、中洞牧場のプリンも。
突然メールをお送りして、車を運転して峠をいくつか超えて、中洞牧場に出向いたことがある。当時、直接中洞さんに話をうかがって、勝手に絆を感じさせていただいたのは、もう15年くらい前のことに。
いのちの哀しみ、くるしみを感じることが出来る部分、そしてそれを少なくしてあげたい、といったマインドを、生業の中で行動に結びつけている部分にとても共鳴したのだ。
その後も1度、ある夏の日に牧場に伺った。Tシャツジーンズ姿で、杖としての棒を持って、牛のいる丘をウロウロするわたしを、中洞さんは「ハイジのようだね」と言ってくださった。
大人版、気分はハイジのような35歳だったわたしも、いよいよ本格的にハイジのおじいさんの方に齢が近くなってきてしまった。それでもいのちに対しては、いまもなお同じような気持ちでいることは、奇跡だし何よりうれしい。
プリンは、懐かしい気持ちと、その時の芯が入った気持ちを思い出しつつ、明日丘をドシドシゆったり自由に往復する牛さんのミルクの力で、生命力をチャージする気分でいただきましょう~
いのちをたいせつに思う、仲間のみなさまへ。
このブログという場所で、出会えてうれしいです。
ありがとうございます☺